109 文系学部出身者の市場価値は失墜するのか?

今年2月17日に『「文系学部廃止」の衝撃』と言う新書が発売されました。著者は社会学者であり東京大学副学長の吉見俊哉環教授です。そしてその内容は、2015年6月に文科省が出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」に対し、各メディアが「国が文系学部を廃止しようとしている」と報じ騒動となったことをきっかけに「理系」偏重と「文系」軽視の傾向を考え、社会の歴史的変化に対応するためには、短期的な答えを出す「理系的な知」より目的や価値の新たな軸を発見・創造する「文系的な知」こそが役に立つと言う論拠を提示する内容でした。

 

実際に一部の企業の採用担当者が「文系学部出身大学生は役に立たない」と感じているのも事実ですが、「リベラルアーツ・教養・一般教育」と言った文系学部出身者が備えておかなければならないスキルを取得しないままに、学生を終えて就職してしまうと言う個人的な問題が「文系学部廃止」とねじれて語られていると私は感じています。

 

2016年より、大学生の就活は学部3年の3月から解禁され、採用選考開始は4年生の8月からのスタートとなるそうですが、学部3年の3月から就活が解禁されると言うことは、学生の間に「リベラルアーツ・教養・一般教育」を習得することは難しいのかも知れません。

 

ちなみに、弊社はクリエイターを対象に採用活動を行っていますので、文系学部出身大学生は履歴書すら受け取っていません。また、東京藝術大学を初めとする武蔵野美術大学、多摩美術大学、東京造形大学、女子美術大学、日本大学芸術学部などの一流美術・芸術大学の出身大学生も積極的に受付けていません。その理由は、弊社はクリエイターを求めているのであって、アーティストを求めているわけではないからです。

 

多くの一流美術・芸術大学の出身大学生は、デッサンなどのスキルは高い反面、自分がやりたいことを譲れず柔軟性に乏しく、独創性ばかりに高い価値を感じ、時間的、対人的な感覚に乏しい人が多いように感じます。それは、個人の特性と言うより美術・芸術大学がそのように教育をしているからではないでしょうか?

 

では、弊社が採用したい人材とはどう言う人材かと言うと、それは専門学校出身者です。その理由は、弊社のビジネスに必要なアプリケーションの使い方を既に習得しているからです。しかも、教養や一般教育と言った面で、一流美術・芸術大学の出身大学生と差を感じず、さらに大学の4年と違い、専門学校は1年〜3年と短いので年齢も若く、外国籍の方で日本語学校を終え専門学校を卒業された方も多いので、仕事における対応言語の幅も広がります。

 

弊社における専門的知識と言う点においては「専門学校>理系大学>文系大学」と言う印象を持っており、専門学校の就職指導の先生方とお話ししていても「当校は就職率100%です」と大学では聞けない台詞を耳にすることもあります。

 

これは弊社のケースですが、同様に考えている企業も多いでしょう。一昔前なら、文系学部出身者は営業部・経理部・人事部・総務部・労務部などに配属され一定の期間の経て上位者に昇級し、末は取締役と言う時代もありましたが、営業部が行う多くの業務がシステム化され、クライアントへの対応にも専門的知識が求められることから考えると、今や営業部や人事部でさえ理系出身者の方が相応しいと考えている企業も少なくないようです。

 

企業や商品と学生を同様に考えることは不適切なことかも知れませんが、企業や商品のマーケティング戦略を考える場合「差異化」が重要になります。おそらく文系学部出身大学生も「差異化」が重要であることは認識をしていて、他の学生にはないアルバイト経験やホームスティによる短期留学などをするのでしょうが、残念なことに、それらも多くの学生が同様の経験をしており、聞いている採用担当者が「またか」と感じてしまうケースが多いのが実態です。

 

とりあえず大学には入学した。そして、3年までは英語と履修希望者の少ない講義を中心に無難に過ごし、講義がない日はバイト生活。3年からは内定が確定するまでは就活をして、就職先が決まれば手軽な卒業旅行に行く・・・そんな学生生活では、目指す業種・業態に必要な専門知識を得ることも、他の学生と差異化するリソースを得ることができないのも当然かも知れません。

 

ところで、文系/理系というイメージを固定化することにデメリットはないのでしょうか?

 

社会学者である東京工業大学名誉教授の橋爪大三郎 教授は著書『橋爪大三郎の社会学講義 2』の文中で、社会におけるデメリットとして、「会社に就職してから、理系の人間は研究所や現場で新製品の開発にたずさわり、文系の人間は営業・経理・人事・総務・労務など、製品の販売や会社の管理にたずさわる。手分けをして会社を支えましょうという、予定調和なのだ。知識が偏っているから、独立しようにも一人では何もできない。会社を飛び出してベンチャービジネスを起こそうというタイプの人間は、だからほとんどいなくなる。文系/理系の区別は、卒業生の知識を偏らせ、会社に依存させるための仕組みなのである。*1」と論じています。

 

さらに「そもそもこんな区別があるのは、発展途上国の特徴である。黒板とノートがあればすむ文系にくらべ、理系は実験設備に金がかかるので、明治時代の日本は、学生数をしぼらざるをえなかった。そこで数学の試験をし、文系/理系をふり分けることにした。入試問題が別々なので、その前の段階で文系/理系を選択しなければならない。*1」と論じています。

 

また、生化学者である北里大学の藤井康男 助教授は著書『文科的理科の時代 新・学問のすすめ』の文中で、「どうも外国では、この文科、理科というものの区別が日本ほどはっきりしていないような気がする。少なくともそういった名前の分け方はないようである。*2」と論じています。

 

そして、文系/理系の分類のきっかけについて、応用物理学者の静岡理工科大学 志村史夫教授は著書『文系?理系?―人生を豊かにするヒント』の中で『自分が「文科系の人」であるか「理科系の人」であるかは、学校でそのように思わされた結果の「自認」でしかなく、自ら進んでそのような分類に飛び込んでいったのではなく学科の成績によってそのように分類されただけなのだ*3』と論じています。

 

これらのことから、文系/理系という分類は、本人の選択によるところが少なく、文系/理系と分類すること自体に意味がないのかも知れません。企業の採用担当者は「文系学部廃止」や「文系学部出身大学生は・・・」と言う概念を捨て、また、学生も文系/理系と言う垣根を超えて成長することが、これからの日本の発展に繋がると私は考えています。

 

*1:橋爪大三郎(1997)『橋爪大三郎の社会学講義 2』夏目書房
*2:藤井康男(1982)『文科的理科の時代 新・学問のすすめ』福武書店
*3:志村史夫(2009)『文系?理系?―人生を豊かにするヒント』ちくまプリマー新書

 

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